2017年10月12日

【社会】未必の故意

行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図したり希望したりしたわけではないまま、その行為からその事実が起こるかも知れないと思いながら、そうなっても仕方がないと、あえてその危険をおかして行為する心理状態。

 個人的な話でございますが。
 車がないと生活していけない田舎都市に暮らしていれば車に乗る機会も多く、交通トラブルで不愉快な思いをすることもある。何ヶ月か前だけども、信号で止まったら、すぐ後ろの車がクラクションを鳴らすのである。驚いて前の車との車間距離を少しだけ詰めると、後ろの車が右折車線に強引に割り込んできた。信号が青になるのを待って空いたらゆっくり入ればいいモノを――赤信号で止まっているのだから、急いで右折車線に入ったところで意味はない。わざわざクラクションを鳴らすことではないと思うのですけどね。

 ムッとして後ろを見やると、すぐ隣に車を急停車させ、運転手がこちらに向かって何か叫び始めるのである。ああ、これは相手にしてはイカン人だと思ったので完全に無視していると、そのうち行ってしまった。

 周りの車を運転している人が常識人だと思ってはいけない。馬○、○ホ、キ○ガイだと思わなくてはならない。であれば、このようなことがあっても、ああキチ○イなんだから仕方がないと思うだけで済む。

 たとえば脇道から本道に入ろうとしている車が急発進して割り込んでくるかもしれない。待っていてくれるだろうと思うから事故るのである。なにせ、相手はキチガ○なのだ、なにをするかわからない。自分を守るのは自分であって、他人の常識や善意ではない。当然ながら、世の中には気に入らないモノが山ほど存在しているのだが、そんなものは華麗にスルーすればいいんであって、気に入らんといちいちとらえていたら切りがない。人生も面白くなかろう。

 それはともかく、このような文句のひとつも垂れたくなるようなことに出くわすのはなぜかというと――100%自分が招いているという観点からいうと、自分が粗いバイブレーションを放っているからだ。つまり、不機嫌でぐだぐだと文句を言い放っているときで、そういう自分と同じような人が自分に寄ってくる。まさにそうであった。だいたい、他人を注意深く観察していれば、そりゃあそうなりますわなとわかるはずだ。それは自分も該当する。自分次第なのであって、1%でも相手にあると思うからムッとするのだ。いや、したんですけどね(^^;。

 原因は常に自分にあり、かつ原因なく物事は起きない。自分が悪いといっているのではない。善悪ではなく、原因。たとえば、物を持ち上げて手を離せば落ちるが、そのこと自体に良い悪いはない。ただ当たり前のことが起きただけだ。善悪の概念から一度はなれて、そういう観点でモノを見ると感情的にならなくなってくる。

 善悪に分ける癖がついていると、そのどちらかになるのは当然で、誰かが自分の中で、社会的でもいいが、悪いと分類されたからとぶっ叩いても意味なんかない。法律に違反しているというなら、それは警察や検察や弁護士や裁判官の仕事であって、そのこと自体に自分は関係ない。関係あるとすれば、自分の粗く乱暴な思いが粗く乱暴な事象を招くと知ることで、そうすれば、自分はどうすべきかわかる。
 あるいは善と分けて、褒めちぎっても他人事で終わってしまい、それを自分がするわけじゃない。それこそ意味がない。偽善者の典型。まあ、私を含めて大抵の人が偽善者ですけども。

 そんなことより自分のこと。
 自分の専門分野で手を抜いてはならないが、他のことは(意見がないわけではないが)任せた。他人が云々ではない。見聞きした、自分が出会ったトラブルは自分がキチンとできているかどうかのチェックと思い、これはまずいなという点があれば向き合って改善していったらいい。それだけ。
posted by おおみち礼治 at 13:51 | Comment(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

【日記】「成功の秘訣」とオレ

成功の秘訣的な本を読む。いまだに自分はそういうモノに憧れているんだなあとあきれるが、読んでみると、地頭の良い、あるいは才能のある、健康でやる気に満ちたものにはよかろうが、わしのような病人に過ぎないものが見ても、なるほどすごいなと感心はしても、自分にできるとは到底思われない。

決めつけることはないかもしれないのだが、これまでの生活や自分はこの程度という概念の中で暮らしていれば楽だから、困窮してどうしようもないというのでない限り、あえてその殻を打ち破ろうとするエネルギーはなかなか湧いてこない。難しいことに挑戦しようとしないのは貧乏人の特徴のひとつらしいが、できない人がどんなに頑張っても本当にできる人には敵わない。

だからといって努力を放棄せよというのではない。誰かの上にいってやろうというのではなく、相応の努力は必要だと思いますけどね。

自分の器というか身の丈がどれくらいなのか、それなりに経験を積んでくればわかってくる。いやオレには無理ですわということも実際あるので、そこは受け入れるべきで、他人はできるのにそれでは気に入らぬと力んでも、得られぬ苦しみが増すばかりだし、卑屈になったり他人への憎悪が浮かんできたりしてろくなことはない。

得られたというならそれはそれでいいのだけども、体や精神を壊すまでしてはいけない。ずっとその生き方をしていくのかといったら無理がある。当然ながら何をするにも簡単ではなく、たくさんの労力が必要なのだが、なかにはいかにも楽に大きな成果を得られると謳うものもある。だが、そういうものに惹かれること自体、人生に対する姿勢を現している。そんなわけないじゃないか。結果が出ないというなら、おそらく、そこが間違っている。人のことはいえませんが。

以前、某勝間氏の成功の秘訣ではないが、ビジネス書を読んで真に受けた意識高い系女子が真似をし、次々と撃沈していく姿を見たことがあるが、誰かのやり方をしても、試みようとしても、そういうこともあることからして、持って生まれた器というものがあるような気がする。小皿が大皿を目指しても無理なモノは無理。

いや、自分を限定しようというのではない。殻に閉じこもっているだけでは先が知れるから、少しでも自由自在性を広げるため、無能なりにする努力や挑戦が徒労に終わらないため、多少なりとも効率的と思われる自分に合った――というのは力むことなく、少しの努力で継続できることなら試してもいい。妄想力だけは肥大化していたりするからw、過大な成果を期待するのだが、それはないので地に足をつけた、淡々と進む覚悟は必要だと思うけど。

人生、思うようにはならない。肝心なのは一般的な価値観や他人に引っ張られて自分を見失ってはならないということで、つい、他人と比べて自分を卑下したりオレは駄目だと絶望的になってしまうが、他人と比べるというやり方そのものが間違っている。誰が言ったか、「高倉健は高倉健しか演じなかった」であるように、自分は自分でしかない。置かれた環境や状態がどうあれ、そこは腹をくくるしかない。私とあなたは違う。洗濯機が冷蔵庫に憧れるのはおかしい。自分は自分であるのが自然、と改めて思うところであります。
タグ:成功 人生
posted by おおみち礼治 at 18:03 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

【日記】ユニクロでストレッチウールジャケットをセミオーダーしてみた

 採寸を受け付けている店舗は、市内で一カ所のみ。ユニクロの大型店舗は初めて行った。こんなに商品があるのかと驚く。目的がハッキリしていないと、この中から選ぶのは大変かも知れない。
 店内が広すぎて、店員さんも目配りしきれない感じ。常に動き回っている。ぼーっと待っていても閉店まで放って置かれそうだったので、こちらから声をかける。試着室へ。

 大きさがいちばん合いそうな試着用のジャケットを着て、袖丈、裄丈を採寸、袖丈と着丈を調整。シャツは首回りを採寸し袖丈を調整。クリップで留める。パンツも試着し、股下を調整して採寸。店員さんがユニクロアプリを立ち上げた私のスマホから、採寸した値を入力してネットで注文。注文が確定すると表示されるバーコードをレジで見せて支払いを済ます。

 10月の半ば――ひとつき弱先に必要なのだが、もし、在庫がなかったら間に合わないかも知れませんと言われた。まあ、そのときはそのとき。ジャケット、パンツ、シャツに補正料、税込で27710円。

 既製品ではなかなかぴったりくるものがないワタクシとしては――オーダーメイドするほど手間もお金も掛けられないので、ユニクロのこういうシステムは助かります。自分のサイズがわかっていれば店舗に赴かなくてもネットで済ませられますが、家族に計ってもらったのと店員さんに計ってもらったのでは若干違っていました。プロに任せるのがいいかもしれません。ちなみに、採寸を記した紙をもらえたので、今後はこれでOK。

MEN セミオーダー感覚で選べるジャケット
http://www.uniqlo.com/jp/store/feature/uq/semiordermadejacket/men/

追記:注文してから6日後に届きました。サイズはピッタリでご機嫌♪
posted by おおみち礼治 at 21:16 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする