2016年12月17日

【日記】働くとは。モチベーションについて

 いくつか職業診断をしてみた。
 といっても、グーグル様で検索して出てきたネット上の診断なんですけれども。
 結果、自然に適職を選んでいるようだ。
 どこかのサイトに、「最大・最強の適性は「熱意」です!」とあった。しかし、熱意がない人もいる。

 話は飛ぶが、どうしてそんなことをしようと思ったのかというと、ひとつは某SNSのコミュニティで、慢性の病気を患っていて仕事をしたいがどうしたらいいかわからない、という悩み相談があり、いわゆる強者がこうすればいいのだとわかりやすい意見を述べているのを見たこと(それができないから悩んでいると思うのだけど)。もうひとつは、正直いまの仕事や、やろうとしていることへのモチベーションがいまいち出てこなくて迷っていたことがある。

 社会に出たばかりの若者というわけではないので、多少はやってきたことがあるし、いまさら全く別の世界に飛び込む勇気も元気も自信もないので、いまあるものを守り育てていくしかないとは思う。改めて職業診断をしてみて、決して自分に向いていないことを無理矢理してきたわけではないことはわかった。

 なにをするかは誰かに指示してもらうことではない。むろん、社内にあっては上司の指示は受けるのだが、その会社、その職業であることは選べる。そして、熱意を根拠として、その熱意がわいてくる自分を信じて行動するしかない。

 だが、もし身体的・精神的に疲弊している状態なら、いくら自分に向いている職業だといっても熱意がわいてこないのは当然だ(いまここ)。熱意がないから自分のすべきことはこれではないのではないかと悩んだり、どうしていいのかわからない(一歩も前に進めない)のもまた必然的なことだ。

 そういう人に、そんなもんこうすればと簡単にいってできるはずがない。アドバイスできるのは、同じように悩み抜いて乗り越えた人か専門家(心理カウンセラーとか社会福祉士とか、場合による)だけで、強いだけの人は口を挟むべきではないと思う。ともかく、仕事を選んだり、その道筋を考えるよりまず、(働くこと以外で)心身を充実させるべきである。そうすれば後のことはついてくるはずだ。

 そのためにまず人との交流は大切だ。たとえば、自分が身体のひとつの細胞だとすると、細胞も身体という全体の中で他の細胞と関わり合いながら生きていけるのであって、単体では存在し得ない。ひとりでいるのはつらかろう。家族もいればいいというものではなく、心が離れていては(真に交流、あるいは信頼がなければ)意味がない。

 まったく自分のことを知らない他人の方が交流しやすいかも知れない。直接会って話しをするのがいちばんだが、そういう人がいない場合は、まず友達や知り合いを作るところから始めなくてはならない。「友達 作り方 社会人」などのキーワードで検索して参考にしたい。手っ取り早く話しを聞いてもらいたいなら、都市圏に限られるかも知れないけどもTimeTicketとかで、「話し聞きますぜ」的な人と会ってもいい。……ホステスさんでは敷居が高い。

 もうひとつは、身体を動かすこと。
 その元気もないかもしれないのだが、だからといって動かないでいると――むろん、病気症状で動けないときは別として――ますますよくない。体調の悪いときに無理をしてはいけないが、基本は散歩だ。最初はそんなことでよくなったりするんかいと思ったが、他にいい案がないので仕方なくやってみると、たしかにいい方向に向かっている気がする。1回や2回歩いてみたところでそうはならない。また、普段身体を動かす習慣のない人が、いきなり1万歩は無理がある。できたとしても疲れてしまって嫌になって続かない。最初は5分でもいいのだ。大事なのは継続である。

 筋トレもいい。ロコトレで充分。1分の片足立ちや5〜6回のスクワットであり、行いやすいと思う。慣れてきてよさそうなら、は物足りない人はもう少し本格的にやってもいい。

 いまのところ元気はつらつというところまではいっていないが、焦ることはない。休むのがベストという判断のときもあるけど、待っているだけでは現状打破は難しい。なにかしたほうがいい。といっても、大きなことをすることはなく、ちょっとしたことなんですけどね。

 自分は自分だと決め、状況がどうあれ自分にできることをしていくしかないなあと思います。また、働くとは「傍(はた)を楽にすること」だと聞いたことがあります。そう考えると、少し目線が変わって別の道や方向性、方法が見えてくるような気がします。

 では、お互い無理せず、そろりそろりと参りましょう。
posted by おおみち礼治 at 21:35 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月08日

【日記】嫌いなタイプから自分を知る

 傲慢で不真面目でうるさい。しかも下品。これが重なるとたまらないものがある。聞いてもいないのに自分のこと、どうでもいいことを大声で嬉々としてしゃべりつづけるんだから、後ろからそっと近づいて首筋に麻酔薬を打ち込んで黙らせたい。

 それはともかく、上記の嫌いなタイプを逆にいうと、謙虚で真面目で大人しく、上品ということになるだろうか。大人しいという特性については、場合によっては向いていないこともあるだろうが、それぞれ特段、悪いこととは思えない。しかし、行きすぎると謙虚は大事なことを小声でちょっとしか言わないとか、真面目なのも堅物で融通が利かないことになりかねない。上品なのもいいんだけど、世の中、見かけは上品でもたいてい中身はそうでもないので、裏側というか真の意図を見抜けず嵌められるかもしれない。

 要するにどっちもどっちというか、重要なところ(核心)からずれているという意味で表現が違うだけで、善悪でも優劣でもない。私自身は後者であり、反対のタイプが理解できなくて嫌っていると思うのだが、自分のやり方、性質にこだわるあまり反対側のものを否定してもいけない。なぜなら、どちらも核心ではないから。極端になるとますますずれる。

 原因である意識がずれているのであれば、結果もずれたものになる。角度が1度ずれただけでも、時間が経てば大きくずれ、思っていたのとぜんぜん違うところに行ってしまい、どうしてこんなことにと悔いることになる。自分とは反対側のものをみて――反対側があるということはすでにずれていることだ。ど真ん中の反対はない。

 ど真ん中にいる人なんてそうはいないので、反対をみて、好き嫌いは置いて核心に近づかなくてはならぬ。感情も大事だが、感情を中心にするといろいろ面倒な気がする。オレは正しい、優れているという思いは麻薬みたいなもの(やったことはないけど)で気持ちはいいが、ハッキリいってそんなわけはないので間違っている。上には上があり、ここまでという上限はない。正しいというのも、自分の立場や知っている範囲でのことで、人類すべてがうなずけるものでなければならないが、そうでなければ間違っている。各業界というかその範囲の中ではあるかもしれないのだけども、すべての枠を外した広い世界でという意味で。

 いっぺんに核心には至れない。わかりにくいかも知れないが、いま現在自分はこうですという理解と受け入れといいかえてもいい。それでやっと地に足がつき、方向性を定めることができる。で、話は戻って、自分もずれているのだから人のことはいえない。いうなら自分にそれ以上のものがなくてはその資格がない。立場や好き嫌いでは駄目だ。左右の違いはあれど同レベルでは仕方がない。ということで、嫌いなもの(反対の、あるいは自分の鏡)を見て自分を知る、というお話しでした。
posted by おおみち礼治 at 16:20 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月30日

【社会】24時間テレビというビジネス

 以前、次世代の党でしたか、選挙のときにネットで右派の皆さんがもりあがって、たくさん議席をとって自民党と連携するんじゃないかと噂になり、注目されたことがありましたが惨敗でした。

 24時間テレビが偽善だとネットで批判されていますが、最高視聴率は35.5%もあり、平均でも15.4%ありました。過去10年でワーストらしいですが、それでも悪い数字ではありません。

 なにをいいたいのかというと、ネットの論調がリアルに及ぼす影響力は(少なくとも今のところ)たかが知れているということです。テレビ屋の立場になれば、どんなに批判されようとも、犯罪だというのでもない限り視聴率がとれる(=スポンサーがつく=広告料収入になる)番組を止めようということにはならない。

 子どものころは、夏休みの一種のお祭りみたいなもので、その雰囲気に浸る目的で見ていたが、マラソンが始まってから違和感を感じて見なくなってしまった。今回は足に障害のある人が富士山を登る企画があったそうで、映ったときにどつかれている(ようにみえる)ところが映って――後ろで馬鹿笑いしている人がいるとか、あれはひどいと批判された。しかし、これも当事者を無理矢理連れてきて登らせているわけではなく、受諾した障害者がいるわけだ。現場にいたわけではないから、どういう状況だったのかもわからない。一部を見て一方的に批判するわけにはいかない。テレビ局の味方をしたくていっているのではありませんよ。

 テレビ局や、チャリティ番組だというのに高額のギャラをもらって出演するタレントへの批判はありますが、その番組を成り立たせているスポンサー企業への批判はあまり見ません。スポンサーになる企業がなければ番組が放送されません。

 なぜ、スポンサーがつくのかといえば視聴率がとれるからで、CMもたくさん見られます(=儲けにつながる)から、企業も手を引く理由はありません。影響力を考えると、ネットはまだ考慮するほどではないという判断で、世間一般的に、あれはひどいという雰囲気になればまた状況は変わるかも知れませんが。
 結局、テレビ局やスポンサーはビジネスとして視聴率に乗っかっているだけであり、番組がひどいというなら、見ている奴がひどいのです。誰も見なければ番組はなくなります。

 話は違いますが、かつて、ボクシングの亀田兄弟の試合を放送した局がありました。当時、亀田兄弟への批判は凄まじく、やはり「あんなものを放送するなんて」とテレビ局が批判されました。いま思うとあれは炎上目的(商法)だったかもしれませんが、内容がどうあれ、また見る人がどう思うのかに関係なく、見られるならスポンサーもお金を出すでしょうし、局としては視聴率が高いのが正義なのですから、多少倫理に劣ろうがなんでもします。そしてそうさせているのは視聴者なわけです。

 気に入らぬというなら、(なんでもそうだけど)無視するのがいちばんで、正してやろうとこちらが力むとあちらも力み、バランスを取るようにますます力を付ける――すなわち協力していることになるので、やめた方がいい。それに、そんなことをしている暇はないはず。無視するだけなら簡単です。ちなみに、私は1ナノ秒も見ませんでしたw。というわけで、この話もこれでお終い。
posted by おおみち礼治 at 19:15 | Comment(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする